市民公開シンポジウム報告

■シンポジウム実現までの道のり

12月12日、私たちは多くの皆さんの支援を受け、シンポジウムを開催することができました。昨年「生活習慣病を死語にする会(SSB45)」を結成した私たちにとって、今回が最初の公式イベントでした。2020年〜世界はコロナパンデミックの混乱の中にあり、誰もが手探りで生きていました。そんな中、2021年3月、シンポジウムにパネリストとして登壇していただきたい方々に出演交渉を始めました。それぞれの分野でご活躍の方々全員のスケジュールが合わせることができたのはなんと8ヶ月以上先の12月12日でした。私は2018年「食の多元的意味について考える」というシンポジウムをある製薬企業の共催で開催していたので、今回のシンポジウムの開催もなんとかなるだろうと考えていました。しかし、いざプログラムを示して交渉を始めてみると、製薬企業の共催には大きなハードルが立ちはだかりました。特に第2部で1型糖尿病当事者、若年発症2型糖尿病当事者、そしてMODYという遺伝性糖尿病当事者が登壇することが製薬企業の共催の大きな障壁となり、視聴者を医療専門職だけに限定して開催することを求められました。しかし、私たちの活動はスティグマのない社会を推進するための一種の社会活動であると考えていたので、こうした製薬企業からの要求を飲むことは出来ませんでした。こうして、ON-LINE配信イベントを一度も開催したことがない、ネット音痴の私が限られた予算の中で、シンポジウム開催に向けて動き出すことになりました。そんな中、「こころのバリアフリー」の実現に寄与する団体を支援する「一般財団法人なないろ未来財団」(私の友人でもある松嶋 大先生が主催:https://www.facebook.com/nanairomirai/)からの支援を受けながら、SSB45による単独開催を実現することができたことは大変幸運なことでした。

■シンポジウムを終えて、今思うこと

SSB45を発会したとき、私たちが掲げた会の目的と活動方針は以下のようなものでした(スライド参照)。

しかし、シンポジウムの準備を進める過程で、「病気の発症や体型などはそれをコントロールできない個人の責任であるという自己責任論を押しつける社会の現実」に遭遇し、当事者の声を集約して、社会に発信していかなければならないという想いがより一層強くなりました。
そして、シンポジウムを終えた今、「生活習慣病」という呼称を死語にすることは決して最終目標ではなく、そこからが始まりであるという想いを強くしました。私たちはこれからもスティグマのない社会をめざして活動をしていきたいと思います。

本シンポジウムでご発表いただいた東海林 渉先生は次のようなコメントを寄せて下さいました。
「この会の運動は名称変更というゴールテープを切るための活動ではなく,スティグマの解消に向けたスタートラインを引くための活動だということを強く感じ,自分にできることを身近なところから一つ一つ積み重ねていきたいと思いました」(引用終了)
私も彼の意見に強く同意します。
シンポジウム当日は多くの参加者がパネリストの発表を傾聴するだけでなく、実にたくさんの多様な意見をチャットで投稿し、会の進行を盛り上げて下さいました。本シンポジウムに参加して下さったすべての人々に心から感謝申し上げます。有り難うございました。

■シンポジウム報告について

第1部では、病因論の立場から京都大学大学院医学研究科の鈴木和代先生、社会学の立場から法政大学社会学部の鈴木智之先生、文化人類学の立場から独立文化人類学者 磯野真穂さん、そして臨床心理学の立場から鳥取大学大学院医学研究科臨床心理学 竹田伸也先生にご発表いただきました。
第2部では、杉本が糖尿病関連スティグマについて発表し、次に1型糖尿病当事者の立場から東北学院大学教養学部人間科学科臨床心理学 東海林 渉先生にご発表いただき、次に「MODY家系に生まれて」と題して、MODY当事者のOTさんにご発表いただき、最後に若年発症2型糖尿病当事者であるシェイ奈美さんにご発表いただきました。
第3部においては総合討論を行いました。
このページでは杉本、鈴木和代先生、鈴木智之先生、磯野真穂さん、東海林 渉先生の発表スライドとシンポジウム終了後に各演者からいただいたメッセージをご紹介したいと思います。また第3部の総合討論の内容についてはすべてをご紹介することは叶いませんが、印象的であった部分をご紹介できれば・・・と思います。

第1部の内容

Opening Remarks(杉本)

スライドは以下のリンクをクリックして下さい。

https://drive.google.com/file/d/1nNGgUh2FbOIbGN4rw9utBkkDRHbXekrX/view?usp=sharing

糖尿病の病因論の立場から(鈴木和代先生)

なぜ私が登壇させて頂くことになったのか、せっかくなので書かせて頂きます。
杉本先生が立ち上げていらっしゃるFacebookグループ生活習慣病を死語にする会のある投稿を転記します。
「真剣討論」に、杉本先生は「1型当事者の2型DMに対する医学的な理解不足が根底にあると思います。多くの若年発症の2型は膵β細胞のインスリン分泌機構の欠陥に基づくもので、およそ生活習慣と結びつけられるようなケースは少なく、遺伝的な背景がより深く関わっているということです。「自己免疫」もつらい、でも「遺伝的な欠陥によって、幼児期・思春期に発症することも同じくらいつらいことだと思います。どちらもなりたくてなった訳ではありません。」とコメントされ、私は以下のように書き込みました。
「医学的な理解不足が根底にあると私も思っていますし、それは医療者による広くは社会への説明不足と思いますので私にとってとても大きな課題です。この重要なテーマに自身の診療などを省みています。
医学的にはアメリカ糖尿病学会ADAやWHOの糖尿病病型分類を参考に日本糖尿病学会も1型、2型、その他、妊娠と分類を1999年に委員会報告としています。しかし、近年の知見により遺伝子多型の集積で糖尿病の表現型は複雑に変わることが明らかになってきていますので、この病型分類を再整理する必要性は学会も医療者も感じています。いずれ1型とか2型という呼称がより詳細に変わると思っています(例えば、自己免疫障害型糖尿病、カリウムチャネル遺伝子多型糖尿病、など)。
一方で、知識と感情は必ずしも比例しないので、糖尿病診断と至った際に病気ととも生きることになった方に寄り添い支えるための意識や知識準備ももっと磨きたいと思って参加させて頂いています。」
遺伝子から病因についてを説明する力が私にはまだ不足していたようにも思いますが、今回のシンポジウムはキックオフだと感じていますので、対話を続けさせていただきたいと希望しています。ありがとうございました。

スライドは以下のリンクをクリックして下さい。

https://drive.google.com/file/d/1v7A3YWmDMTb_Viix-bQGj8MQRRWIO2-1/view?usp=sharing

社会学の立場から(鈴木智之先生)

今回のシンポジウムに参加させていただき、「生活習慣病」を死語にするというプロジェクトは、単に言葉に伴うネガティヴなイメージを払拭し、誤解を解消するということにはとどまらず、病いというものについての認識(とりわけ病因論)、医療知識と社会的言説との接合、そして社会のなかでの病い・病む人の位置づけに関わる深い問題に根差しているということを再認識させられました。その意味で、ここから長い闘いが始まるのだと思います。私は、病む人一人ひとりに出会い、その固有の経験を伝えていくという作業を重ねていくことで、何かしらの貢献ができればと考えています。貴重な機会をいただきありがとうございました。

スライドは以下のリンクをクリックして下さい。

https://drive.google.com/file/d/1-MfqRevZggvg1Xbt0ALx3X8k36TJHoLt/view?usp=sharing

文化人類学の立場から(磯野真穂さん)

貴重なシンポジウムに登壇させていただきお礼を申し上げます。 シンポジウムでは、なぜこの社会はこれほどまでに自己責任を論ずるのか、なぜこの社会は糖尿病の人々にこれほどまでに無理解なのか、といった道徳的な観点からの発言が多かったように思います。 確かにこれはもっともな視点なのですが、少し引いた視点から見ると、糖尿病についての自己責任論の跋扈は、食というものがコントロール可能な何かであると多くの人が信じ込んでいることにあるのではないでしょうか。 社会が飢饉の危険から脱すると、痩せていることが理想になります。なぜなら誰もが簡単に太れる社会において、太っていることは病気、怠惰、自己管理の失敗の証となり、痩せていることはその反対の意味を帯びるようになるからです。 しかし人類がこのような領域にやってきたのはつい最近のことで、それまで人類は、何をどのようなタイミングでどの順番で食べるかではなく、そのもっと手前にある、死なないために食べる量を確保すること、に必死になっていました。 そう考えると、糖尿病を取り囲む倫理の奇妙さが見えてこないでしょうか。 また糖尿病に限らず、何か問題が起こると私たちは原因探しに必死になります。糖尿病が自己管理の失敗なら、私が調査をしていた摂食障害は、80年代〜90年代当時、その原因が母親の不適切な子育てにあると真剣に論じられていました。 コロナにおいては、若者、飲食店、外飲み、五輪、果ては気の緩みといったよくわからない存在までもが感染拡大の主犯とされ、糾弾となる対象は移り変わっています。 私たちは何か不都合なことを見たり、見舞われたりすると、その混乱を収めるために、Aのせいでこれが起こる、といったわかりやすい物語を欲します。 そうすればとりあえず安心できるから。 でも、「果てしてそれで良いのか?」と問えるのが人間でしょう。 ホモ・サピエンスの「サピエンス」には知恵という意味があります。 だとするならば、その知恵をどのように使うのか。 私たち一人一人は、どうにもこうにも、わかりやすい物語を求めてしまう存在である。 それを踏まえつつ、わからないことをわかりやすく変換し、誰かを闇雲に責める物語には、「わからないまま」抵抗し続ける。 そんなわかり切った、でも忍耐のいるやり方が、ホモ・サピエンスに与えられた知恵の使い道なのでは、と思います。 —— 磯野真穂 (文化人類学・医療人類学)

スライドは以下のリンクをクリックして下さい。

https://drive.google.com/file/d/1qWw0TMifXyKAjFXyrnzzcoktAUNpjKkc/view?usp=sharing

以下、磯野真穂さんの講演「名付けの不思議」の中から一部をご紹介します。
日本は非常にあやかりの原理による名付けられる文化である。生活習慣に気をつけて疾病を予防しようという「ちなみの原理」で付けられた「生活習慣病」という言葉は元々は誰かを傷つけたりするつもりはまったくなかったわけです。しかし、「あやかりの原理」で理解されるようになって、多くの人々を傷つけることになった。人は分類し、名付けることで理解しようとしてきました。疫学的な立場から「生活習慣病」という名付けをすることには原因をコントロールしていこうという意図が隠されています。
疫学的思想に強固に囚われて名付けられた病名
生活習慣病という呼称は徹底した自己管理によって病気を避けることが出来るという現代社会の強固な確信に基づいているということができます。
生活習慣病といわれている病気はDMだけではなく、今やあらゆる健康上の問題がすべて生活習慣と結びつけて語られるようになっています。したがって、生活習慣病という呼称を死語にすることはできると思いますが、「生活習慣が問題を引き起こすという強固な意志はこれからも決してなくならないだろう」と思います。
Lancetの編集員を務めていたペトラ・シュクラバーネク「人は食べると死ぬらしい」という強烈な皮肉を込めた言葉を残しています。

臨床心理学の立場から(竹田伸也先生)

生活習慣病に伏流するスティグマを乗り越えるために、杉本先生と当事者の方々が始めたチャレンジを、今回のシンポジウムを通して改めて理解しました。まず、そうしたチャレンジに力を注いでいただいていることに、心より敬意を表したいと思います。
今回のシンポは、多くの方が参加し、様々な意見を共有しました。おそらく、「生活習慣病に由来するスティグマを解消しよう」、「人の営みに基づく生きづらさを何とかしよう」という価値を共有していたでしょうから、お互いの意見をありのまま受け止め、建設的な議論ができたと思います。
一方で、多様性を尊重し、立場の異なる人々が共存するという営みは、本来は居心地の悪さを伴うことだろうと思うのです。異なる価値観や態度を表明すると、「あなたの考えはおかしい」とか「おまえみたいなやつは出ていけ!」と、頭ごなしに相手を全否定したり、排除しようとしたりするのが、昨今の時勢でもあるように思います。
今回のシンポは、多様性を認め合い、誰もが生きやすい世の中を射程に捉えていると思います。だからこそ、次回のシンポでは「スティグマのなにが悪い。世の中すべて自己責任だ」と声を上げる人にも参加してほしいと思いました。価値観が異なる人やスティグマを手放せない事情を抱えた人が参加し、自らの想いを述べ、それについてお互いに真摯に耳を傾け、「あなたにもあなたなりの事情があって、そんなふうに思うのですね」という受け止めがあったうえで、「実は私はこう思うんです」というやりとりが展開する。そんなふうに、“様々な人々が折り合って共存することは可能なんだ”という在り様を、次のシンポで参加者みんなが体験する。そんなふうにシンポを通したチャレンジが発展していくと、どのような立場の人も一緒にスティグマを乗り越える土俵に立てるかもと、次回とその先の未来を夢想しました。そのように夢想させてくれるほど、今回の登壇者のみなさんや参加者のお話は、広々とした見晴らしのよい視界を伴っていました。
そして改めて、今回のシンポジウムを通して、「何かあっても自分は無関係でいたい」という社会ではなく、「何かあったら自分もできる範囲で力を届けよう」と責任を共有できる世の中に近づくことができればいいと思いました。「それはあなたの責任だ」となんでも自己責任に帰すのは、ひとりで御輿を背負わせるようなものです。そんなの誰も背負えない。御輿の担ぎ手が多い方が、一人が感じる負担は少ないし、御輿も華やかです。今回のシンポに参加して、自分も御輿の担ぎ手になることができればと思います。杉本先生と同志の皆さんが担いでいる御輿を、僕も時に一緒に担ぎたいので、これからもよろしくお願いいたします。

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https://drive.google.com/file/d/18aXheprcKeES3mIGT081TF-MFdwJ-Ar9/view?usp=sharing

第2部の内容

1型および2型糖尿病の生きづらさと社会的スティグマ(杉本)

スライドは以下のリンクをクリックして下さい。

https://drive.google.com/file/d/1LGaD4ssHkB95IrgNIwZZFrBKYi_NuxlI/view?usp=sharing

1型糖尿病当事者の立場から(東海林 渉先生)

実りのあるシンポジウムとは,疲れと余韻と混沌がしばらく続くものですね。貴重な時間をありがとうございました。 どのお話も,どのコメントも「自己責任」というテーマをめぐる点でつながっていたような気がします。 自己責任をめぐる呪縛は,「生活習慣病」という名称と関連づけられ,また医療の予測とコントロールに関する神様的な幻想によって強められている気がしました。人体の不思議を紐解けば、そこには偶発性があるはずで,そこから生じる多様性が人類を作ってきたのだろうと感じます。その多様性を「自己責任」で分断することなく,共生する。その営みが今まさに求められていると思いました。これは名称変更というゴールテープを切るための活動ではなく,スティグマの解消に向けたスタートラインを引くための活動だということを強く感じ,自分にできることを身近なところから一つ一つ積み重ねていきたいと思いました。 これは,いずれも各先生方のお話,そして当事者の皆様の苦労を聴きながら,繋げて繋げて考えたことです。到底一人では至らなかった考えでした。 当たり前ですが,自分と違う他者と交わるのは,実に奥深く,尊い営みだと感じました。

スライドは以下のリンクをクリックして下さい。

https://drive.google.com/file/d/1mfUdnzgaUggAZ6k7aou-gaoAtnwrADbs/view?usp=sharing

第3部:総合討論

当事者の発表を聴いた感想、意見

■東海林渉先生
2型の語りを聴いて、体験が全然違うなぁと思いながら、一方で違うけれど似てるなと感じました。発症当時は自分のことばかりに目が向いて考えていたわけですが、時間が経ってくると他の人たちが何を考えているのか考えるようになったことを想い出しました。奈美さんが仰有っていた自分が入れない1型当事者だけのスペースがあったというお話を聞いて、自分が閉め出されてしまったようで、とても辛かっただろうなぁと思ったし、1型当事者として大変申し訳ないとも思いました。そしてこれからどんな風にしたら両者が理解し合えるのか?こうした場で話し合っていけたら良いなぁと思いました。

■鈴木和代先生
当事者の皆さんのご発表を聴きながら、こうした“生きづらさ“について、なかなか日常診療の中では扱うことができていないなぁということを反省しつつ、と同時にこうした生きづらさとかスティグマはいろいろな場面に溢れていて、今回は糖尿病患者さんの生きづらさとスティグマに焦点を当てている訳ですが、実はこのシンポジウムに集まった私たちはマイノリティーに属しているが故に、生きづらさやスティグマに直面している訳ですが、まだこうしたことに気づいていない、そして無意識に当事者にスティグマを与えてしまっている他の多くの人たちと、どのように対話して、より良い社会を作っていったら良いのかということについて、地道に考えていけたらと思っています。

■磯野真穂さん
生活習慣病には高血圧、狭心症、脂質異常症、脳梗塞なども含まれている。私は循環器クリニックで3年間、心疾患についてフィールドワークをしてきたけれど、病名を付けられることの苦しみをこれほど感じている患者さんには会ったことがないです。これはDMという病気に特有なことなのか、DMという病気自体になにかの意味がくっついてしまっているのでしょうか?DMという病気に特別にスティグマがくっついてしまっている気がします。もしも、そうだとしたら、生活習慣病を死語にしたとしても、2型糖尿病と言われただけで、そういう意味付けは残ってしまうのではないかと、これまで私がやって来たフィールドワークの経験からは言えるのではないかと思います。これはコメントではなくて、私から皆さんへの質問なのですが、生活習慣病の中で、なぜDMだけにこうしたスティグマがくっついてしまったのでしょうか?

■東海林渉先生
今の磯野さんのお話を聞いていて、精神疾患の名称変更についても同じようなことが言えるなぁと思いました。病気の名称変更に携わった人たちから聞くことは、精神分裂病から統合失調症へと病名が変わっても、精神疾患自体に対するスティグマは残っていて、病名変更してからがスタートだということを言っていた。病名変更がゴールではなくて、それからがスタートだ、長い闘いだという気がします。

■竹田伸也先生
第2部の皆さんの意見を聞きながら思ったこと。
仮に生活習慣病と呼ばれる病気が生活習慣によるものであったとしても、それって「放っておいてよ」ってことだと思うんですよね。なのになぜ、こんなにバッシングの嵐が起こってしまうのだろうか?
「生活習慣病が悪いよね」ということと「生活習慣病っていう呼称が悪いよね」ということは使い方によってはベクトルが似てしまうのではないか?
どちらも理想をデフォルトにしてしまっている。
今日のここまでの議論を聞いていて、とても穏やかな気持ちになることができるのは、チャットで意見を述べてくださる方もパネリストの方も相手の意見をきちんと聞いて、承認しながら自分の意見を述べておられる。つまり、こうあるべきという理想をデフォルトにしないという価値観を共有しているからではないか?
今の僕たちの社会は理想をデフォルトにしすぎてしまう、つまり、こうあるべきだという前提を強く主張しすぎてしまうことで、それを満たさない対象は糾弾の対象になってしまう。なぜそうなってしまうのかと言えば、人間がもつ弱さに対する想像力の欠如ではないか。
先ほど、鈴木和代先生が考え方が違う人間のコミュニケーションをどうしたら良いのか?という問題提起をされたのですが、こんなことを言うと世間からバッシングされるから言わないことにしようというようなコミュニケーションをやってしまったとしたら、それはその人にとって、決して成熟ではないと思うんです。人々が社会的に取り繕うために、あえて生活習慣病って表現をやめようとか、あなた生活習慣が悪いんじゃない?とか言うのは止めましょうと考えて、社会的に取り繕った表現ばかりをしているとすると、それは成熟ではなく、抑圧だと思う。人間は成熟していくためにはあえて自分の弱さを表現することが必要。今回、この問題を私たちがもう一度考えてみる上では「弱さ」を考えの中に入れるということがとても重要だと思いました。

■鈴木智之先生
今の竹田先生のお話に付け加えて言うとすれば、さまざまな偏見、誤解を解いていこうとすると、それではどのように呼ぶことが正しいのですか?どのように接したら正しいのですか?という問いが反転して来るわけです。
つきつめていくと、誤りのないマニュアル探しに繋がっていきます。
でもここで大切なことはひとり一人の体験に向き合うことが大切ではないかと思います。
つまり、糖尿病に対する正しい知識を持つことよりも、ひとり一人の体験、経験に向き合って、この人はこういう経験をしてきたのだということを知ることが大切ではないか。ひとり一人の患者さんの経験に向き合うことによってしか、病いの人にどう寄り添ったら良いのかという答が生まれてこない気がします。

■磯野真穂さん
2型になることでどのような苦しみを受けることになるのかというお話は非常に衝撃的でした。また1型の人がテンプレのように自分が2型ではないと言って、それが免責事項になるという話も、ここまで聞いたのははじめてだったので大変驚きました。

■竹田伸也先生
なぜ我々の社会は個人に責任を負わせようとするのか?
みんなで責任を担い合う社会にしたいということを今回のシンポで思いました。

■鈴木智之先生
クレール・マランは「自己とは生活習慣である」と言っています。
生活習慣なしに人生はない、もっと生活習慣はポジティブに捉えていくべきだと思います。

■1型当事者の立場からの提言(能勢謙介さん)

講演タイトル:1型糖尿病患者は、なぜ誰よりも“糖尿病についての誤解”に囚われてしまい易いのか?

スライドは以下のリンクをクリックして下さい。

https://drive.google.com/file/d/1SQ3ibLEu5RMF7tdKG4x1njefdXITRQeQ/view?usp=sharing

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