「市民公開シンポジウム2024」の報告
■はじめに:市民公開シンポジウム2024を終えて
2024年11月09日、第3回市民公開シンポジウムを開催しました。今回のシンポジウムのテーマは「病いをスティグマ化する誤った自己責任論に抗う声を結集する」としました。過去2回のシンポジウムで、なぜ糖尿病をもつ人たちが社会からこんなにも自己責任を問われなければならないのか?という問いに対する明確な答を未だ見出せていなかったからです。私は糖尿病関連スティグマの本質は「誤った自己責任論」にあると考えていましたが、自信はありませんでした。こうした言説を唱える人がいなかったからです。そこで、今回の第1部では東京医科大学で医療人類学の教鞭を執っておられる倉田誠先生に「健康における自己責任論をめぐる諸問題」について語っていただき、さらに牧師であり、チャプレンでもある大柴譲治さんには、私たち医療専門職がもっとも苦手としている病いの当事者に対する姿勢についてお話しいただきました。第2部には、1型糖尿病当事者である東海林渉先生(臨床心理学)と濱雄亮先生(医療人類学)、さらに2型糖尿病当事者でもある梶原景昭さん(元文化人類学教員)を迎え、「誤った自己責任論」や日本糖尿病協会が推進する新呼称「ダイアベティス」について、忌憚のないご意見を語っていただきました。各パネリストのご発表を傾聴し、その後の総合討論を終えて、糖尿病関連スティグマの元凶は「誤った自己責任論」にあるという確信を得ることができました。今後、私がアドボカシー活動を続けていく上で、大切な気づきをもたらせてくれた今回のシンポジウムの内容を皆さんと共有したいと思います。
■プログラム
テーマ:不健康をスティグマ化する自己責任論を乗り越えるための声を結集する
【発表者】
OpeningRemarks:スティグマのない糖尿病ケアを求めて
杉本正毅(バイオ・サイコ・ソーシャル糖尿病研究所代表)
第1部 : 健康における自己責任論をめぐる諸問題
倉田誠(東京医科大学一般教育系人間学)
大柴譲治(日本福音ルーテル大阪教会牧師)
ランチョンセミナー:精神分裂病の改名運動を振り返る
第2部 : アドボカシー活動をどう進めるか?
今、スティグマ解消に必要なことは何か?
東海林渉(東北学院大学教養学部人間科学科臨床心理学)
濱雄亮(東京交通短期大学運輸科医療人類学)
梶原景昭(元北海道大学文学部教員文化人類学)
第3部 : 総合討論
〈座長〉鈴木智之(法政大学社会学部社会学)
■各パネリストの発表内容
Opening Remarks 杉本正毅
まず冒頭に、糖尿病をもった人たちの多くが「他者から偏見・差別を体験する前から社会から差別を受けるのではないかと心配していること(予期的スティグマ)」を強調しました。糖尿病学会(JDS)や糖尿病協会(JADEC)は医療者が使う言葉を是正していくことに注意が向けられていますが、「薬を飲みたくない」、「インスリンを始めたくない」という気持ちの背後にある予期的なスティグマの重要性はもっと重視されるべきではないかと考えます。
またJDS、JADECは糖尿病の新しい呼称としてダイアベティスを推進しています。しかし、病名変更を強く希望している1型糖尿病当事者の多くが「発症に対する生活習慣の関与の有無を含む病因論の立場」から呼称変更を望んでいることにもっと注目すべきだと考えます。スティグマの被害を受けている1型当事者が、その汚名から逃れるために求めている証が「私は悪い生活習慣とは無関係であるという免罪符」であることをみれば、糖尿病関連スティグマの元凶は「生活習慣病言説」であることは明らかであり、それ故、新しい呼称を導入するだけでは不十分であり、社会に広まっている生活習慣病言説にも介入していく必要があると考えます。
即ち、アドボカシー活動の本丸は「病因論の正しい理解」といった知識領域にあるのではなく、「誤った自己責任論」にあり、社会の人たちに「誤った自己責任論に気づいてもらうこと」こそが重要であるということを伝えたいと思います。
糖尿病や肥満は自己管理や自己責任の欠如が原因であるという根拠のない仮定に基づいた誤解(社会的スティグマ)が社会に蔓延しています。これらは「血糖値や体重の調節は必ずしも意志の力によるものではなく、生物学的、遺伝的、環境的因子が強く影響しているという科学的エビデンスに反するものです。
講演では摂取カロリーと体重(BMI)の間には相関を認めないという日本人2型糖尿病者の研究結果を紹介しました(Diabetes Res Clin Pract;77S,S23-S29,2007)。そして今後、糖尿病や肥満に対するスティグマを撲滅していくためには、「病人(病気)」に焦点を当てた患者中心医療(Patient-Centered Care)から「病気」ではなく、病気を持った「人(Person)」に焦点を当てたPerson-Centered Careを普及していかなければならないという言葉で講演を締めくくらせていただきました。
当日、使用したスライドは以下のリンクからご確認ください。
https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:0be11e28-2739-414c-8b83-9dd77cbf8a98
第1部 健康における自己責任論をめぐる諸問題
医療人類学の立場から:健康をめぐる自己責任論の問題点 倉田 誠さん
この度は素晴らしい機会をいただき、ありがとうございました。とても刺激的な議論でした。
今回お話しました「病気の物語を自己責任へと焦点化・収斂させてゆくメカニズム」やその根底にある「その人の決定こそがその人らしさという考え方」は、普段、大学での医学教育や病院での臨床症例のコンサルテーションなどに関わるなかで常々感じている問題でした。
医療人類学では、「病気」という現象に関して、社会関係のなかでその経験の物語がいかにつくられていくのかという視点から考えることがあります。それぞれの社会、それぞれの時代には、もっともらしい「病気」の物語というものがあり、私たちはそれを手がかりや参照点として「病気」を捉え、経験していきます。このような視点から現代の日本社会を考えると、「病気」を個々人の「生活習慣」に結びつけ、日ごろから個々人にその予防や制御を求める傾向がますます強まっているように感じます。このたび、糖尿病というテーマを頂いたときに、まず頭に浮かんだのはこのことでした。
さらに、近年では、「自分らしい死にかた」まで問われるようになり、自分の死を「自分らしく」管理し演出することが求められるようになっています。しかし、結局のところ、死にかたは誰かに委ねることになるのではないでしょうか。さまざまな物事を自己が管理する範囲に収めることに至高の価値を見出すような考え方は、それがうまくいかない場合に大きな混乱をももたらします。医療現場でも、「本人の意志・意向が文書で残っていない」「キーパーソンが見当たらない」ようなとき、医療者は大きな葛藤を抱えます。最近注目されている「共同意思決定(SDM)」や「人生会議」も、なんとか本人に「主体性」を持たせて、できるだけ「自己決定」に近いかたちに落とし込もうという意図が感じられます。医療者の側も「どうしますか?」「決めておいてください。」とあれこれ自己決定を促すばかりでなく、「大丈夫ですよ。やりたいことがあれば言ってください」というぐらいの姿勢で向き合えるとよいのではないでしょうか。
今回の講演ではこのような関心から、私がしばらく関わってきた認知症について検討し、病気を「自己責任」という物語へと収斂させてゆくメカニズムとして、①ケアの社会資源化、②「意思」の人格化、③データ分析の重層化という3つの要因を挙げました。まず、①ケアの社会資源化とは、社会制度や公的サービスとしてケアが提供されることで、「コスト」意識や社会的配分の問題に注目が集まることを指しています。次に、②「意思」の人格化とは、世帯規模の縮小やライフスタイルの多様化とともに、その人の決定とその結果こそが「その人らしさ」であるという認識が強まることです。そして、最後に③データ分析の重層化とは、情報技術の進展によって膨大で多様なデータを重ね合わせて際限ない因子探索を行うことが可能になってきた状況を指しています。これらが結びつくことにより、多様な個人や生活スタイルから予防・管理可能な因子を見つけ出し、それを個人の生活や行動の変容へとつなげる循環が生み出されやすくなっています。「生活習慣病」や「自己責任」といった物語の様式には、このような社会状況が見事に反映されていると感じています。
今回のシンポジウムで主題となった事柄は、糖尿病の患者さんやその家族、あるいはそれに関わる医療者だけの問題ではなく、より広く現代の社会や制度が前提としている人間観のようなものまで問うものだと思います。そういう意味でも、(医療人類学にとどまらず)人類学にふさわしい課題だと言えます。私たちの社会において、どうやって「個人の意思」といったものが生み出されるのか、どこまでが人(個人)が制御できるものとされているのか、なぜいまそのような考え方が広く受け入れられるようになっているのか、といったことを、これから丁寧に解きほぐしてゆく必要がありそうです。
今回は、私自身もまだこのような問題を十分に言語化できないまま、「自己責任」の物語に向き合うための手がかりとして「主体性のあり方をどのように再定義するか?」という抽象的な問いを投げかけてしまいました。それを真摯に受け止めて議論していただいた先生方に心より感謝いたします。
当日、使用したスライドは以下のリンクからご確認ください。
https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:46f1b1dd-aa5b-458c-b673-5644fcaafd15
牧師・チャプレン、2型当事者の立場から慢性の病いと共に生きる人々への関わり方について 大柴譲治さん
シンポジウムに参加させていただいて思うこと
① 私は一介の牧師ですので、このような医療シンポジウムへの参加というのは初めてのことでした。私の性格としてはシャイな割には好奇心が強いために、お世話になってきた杉本正毅先生から絶妙の依頼のタイミングだったこともあって、ためらいつつお引き受けさせていただきました。実は私は翌日の聖霊降臨日(ペンテコステ)のために説教準備をしていた際に依頼があったためでした。翌日は「パラクレートス」(助け手・弁護者)としての「聖霊」について準備をしていたところだったのです。「パラクレートス」はギリシア語ですが、それをラテン語にすると「アドボカシー」。どちらにも「呼ぶ(call)」という動詞が含まれていて、両者とも「かたわらに呼ばれてある者」という意味となります。
② 私はこれまで「ホスピスチャプレン」となるための訓練を受け、阿佐ヶ谷で牧師をしながらも三年半ほど墨田区の病院で非常勤のチャプレンとして働いたことがあります。今回のシンポジウムでは40分間という時間が与えられましたので、限られた範囲内でしたが、牧師として普段から大切に考えていることを少しお話しさせていただきました。
人間は英語では ”human being” と言いますが、どこまでもそれは ”being” であって、”human doing” ではないということです。もちろん「存在Being」と「行為Doing」とは不即不離、表裏一体の関係にありますが、BeingはDoingを成り立たせる前提でもあり、Doingに先立つ次元に位置しています。しかし病気になったとたん「病人」とか「患者」として呼ばれるようになる。杉本先生が言われた「Person-first language」「Person-centered Care」という概念に深く首肯するものでした。病気は私という存在全体のほんの一部でしかないのですから、医療従事者として向かい合う人を「全人的」に「human being」として受け止める態度が強く求められていると思います(医療従事者に限らず、人間としてはすべて同じでありましょう)。その意味でWHOが1946年以来挙げている「安寧well-being」という表現はとてもインクルーシブでよいと思います。SDGsの三つ目の目標にも入っていますね。「すべての人に健康と福祉を(Good Health and Well-Being)」という言葉が。
この点に関しては社会心理学者であったエーリッヒ・フロムが「To Have」と「To Be」とを対比させて論じていることを想起します(『生きるということ(原題:To Have or To Be)』1977、『よりよく生きるということ(原題The Art of Being)』2000。紀伊國屋書店刊)。後者はフロムの遺稿でもあります。現代社会は必要以上に(不当に?)「Doing」に焦点を当てて、そこだけに生の意味と価値とを見出そうとします。「Being」そのものが持つ意味や価値が背景に隠れてしまうことが少なくないように思うのです。そのような中にあっても、「どこまでもBeingの大切さを忘れない」という立場を伝え続けるアドボカシー運動に取り組んでゆきたいものです。
③ そして「スティグマ」(複数形は「スティグマタ」)という語もギリシア語で、それは深くキリスト教的な概念です。使徒パウロが「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラテア6:17)と言う際の「(奴隷として)焼き印」は「スティグマタ」という語が用いられていますし、復活のキリストが12弟子の一人のトマスに示した「十字架の傷痕(釘跡と槍跡)」こそ「スティグマタ(聖痕)」として私たちは受け止めてきました(ヨハネ福音書20章)。そこでの「スティグマタ」は十字架上で死んだナザレのイエスが復活したキリストと同一人物であるということを示すエビデンスなのです。即ち「スティグマ」は私たち一人ひとりの一番大切なアイデンティティに関わっている。その意味でお二人のシンポジストが「糖尿病」という語に「自分は愛着がある」と語っておられたのはとても印象的でした。それとの格闘の中に自らのアイデンティティを深く見出してこられたからでしょう。
しかしもちろん、社会的に弱い立場に立つ者に押しつけられた「スティグマ」をなくしてゆくための「アドボカシー」活動の大切さは私も認識しています。「パラクレートス」や「アドボカシー」という語が持っている本来の意味のように、牧師は苦しみや悩みを背負う人に呼ばれて傍に立つ(ある)ことが少なくありません。そのためにも自分にできることは可能な限り実践してゆきたいと思っています。
④ 杉本正毅先生の「ナラティブ・メディシン」を大切にする態度にも、私はこれまで深く共感してまいりました。リタ・シャロンはこう言っています。「自分自身や他の人たちにストーリーを語ることで、私たちはゆっくりと、自分が何者であるかを知るようになるばかりでなく、自分自身にもなってゆくのである」(『ナラティブ・メディスン』、医学書院、2011)。自分を物語ること、物語に誠実に耳を傾けて丁寧に傾聴してゆくこと。皆が自分の主張をするばかりで傾聴することを忘れてしまったように見える「モノローグ」的な現代社会の中にあって、私たちはどこまでも「ナラティブ」を大切にし、「対話」(ダイアローグ)を楽しんでゆきたいと思っています。その意味でマルティン・ブーバーの『我と汝』(1923年に出版されました)は私の愛読書の一つです。
⑤ 私が上智大学グリーフケア研究所で聴いた言葉に「か・え・な・い・心」(日野原重明)というものがあります。それは「かざらず(正直・率直・誠実であること)」「えらぶらず(上から目線ではなく、対等であるということ)」「なぐさめず(これが一番むずかしいですね。慰めのない沈黙の中に、自己の無力さを感じながらも、そのかたわらに居続けること)」「いっしょにいる(呼吸を合わせて、祈りながら共にいること)」という意味で、対人援助職の基本となります。
⑥日の出42分前に鳴き出す小鳥たち〜ケリー・ターナー『ガンが自然に治る生き方』より
シンポジウムでご紹介したエピソードを最後に触れておきます。私たちが生きる上で「希望」はとても大切です。ビクトル・フランクルはアウシュビッツでの体験などを記した『夜と霧』の中で、強制収容所で一番最初に倒れていったのは体力のない弱い人たちではなかったと報告しています。希望を失った人、絶望した人から先に倒れていったのだと。何が「希望」であるかは個々によって異なるでしょうが、病気の次元においても「患者さん」(病気を抱えた人)たちは常に「希望」を、「奇跡的な寛解」の可能性を求めているように思えます(ケリー・ターナー、『がんが自然に治る生き方』、プレジデント社、2014)。たとえ「エビデンス」が乏しいとしても、「自己治癒力を高める民間療法」や様々な試みや「治療的な大発見」に期待する心を、医療従事者の皆さんにはお支えいただく必要がありましょう。たとえこれ以上の治療が困難であるということになっても、緩和ケアを受けることになったとしても、フランクルの言うように、私たちはどこかに皆「希望」や「目的・意味」を求めて生きているのであると思います。病院チャプレンの仕事は共感的な受容と傾聴を通してそのような希望を支えることだと私は考えています。
ケリー・ターナーが紹介している日本人のシンさん(寺山心一翁氏。1935-2023。『ガンが消えた〜ある自然治癒の記録』日本教文社2006)というチェリストがいます。シンさんのエピソードはとても私にとっては印象的なものでした。肺ガンの末期状態にあった彼はもともと理系のエンジニアであったそうです。ですからある意味で病院から治療法がないと見放されたされた時にも、諦めずに自分の事は自分で決めると決意して様々なことを実験してみました。その中でも朝早く起きると小鳥たちが鳴いていることに気づく。調べて見ると、小鳥たちは日の出のちょうど42分前に鳴き始めていることを突き止めます。家で飼っていた三羽のインコで酸素ボンベを買ってきて夜中に何回か酸素を吹きかけてみると案の定インコたちが鳴き始めたそうです。夜中に何度か起きて実験してみても同じでした。そこから彼は一つの仮説を立てます。植物たちが太陽の光を浴びて光合成を始めるのが日の出の42分前なのではないか。そこから日の出までの42分間が、一日のうちで空気中の酸素濃度が最も高いのではないか。そして鳥たちはそれに反応しているのではないか。鳥たちにとって良いものは人間にとっても良いものに違いない。そう考えたシンさんは、それから毎朝小鳥たちと一緒に歌うようになったそうです。それ以外の方法も試みる中で、やがてシンさんは「劇的な寛解」へと至ります。実に不思議なことですね(日本臨床腫瘍学会編、『ガン免疫療法ガイドブック』第三版(案)。第二版は2020)。医療従事者は一人ひとりのhuman beingの中にある潜在的な回復力/レジリエント力を個別的に支援する役割をも果たしてゆくのでしょう。EBM(Evidence-Based Medicine)も大切にしながらも、ナラティブ・メディスンをも視野に入れて目の前の人たちに向かい合っていっていただきたいと期待しています。 以上。
ランチョンセミナー:杉本正毅
精神分裂病から統合失調症へ
〜その病名変更の歴史から「糖尿病の呼称変更」の進め方について考える〜
精神分裂病の原語であるschizophreniaは欧米の一般人には意味の理解が難しいラテン語表記であるのに対して、我が国における精神分裂病という名称は日常語による表現であるため、「分裂」という表現がもたらす誤解が、一般社会に広まり、患者・家族に苦痛を与えるという日本に特有の現象が生まれた。全家連(全国精神障害者家族会連合会)によるアンケート調査においても、「人格自体がバラバラに分裂している」「何をするのか分からない存在」と思われているという意見が6割を占めた。その結果、精神分裂病の病名告知率は国立病院5施設の調査において20%に満たないという状況にあった(日本神経精神学会理事長・佐藤光源、日産婦誌 54巻10号,1492,2002年)。1993年、全家連が、人格を否定する響きをもつ呼称を変えて欲しいということで「病名変更を求める意見書」を学会に提出。1995年、日本精神神経学会は「精神分裂病の呼称を検討する小委員会」を発足。その後、様々な調査を経て、9年後の2002年、「統合失調症」という呼称変更が認められた。精神分裂病が患者家族の陳情書からBottom up方式で始まったのに対し、糖尿病では糖尿病学会、糖尿病協会の理事によるTop down方式で始まった点が大きく異なっている点を強調したい。
当日、使用したスライドは以下のリンクからご確認ください。
https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:d0123be5-a99c-4e3e-a60b-e714a412d14a
第2部 : アドボカシー活動をどう進めるか?今、スティグマ解消に必要なことは何か?
臨床心理学の立場から 東海林 渉さん
今回もSSB45の市民公開シンポジウムでお話をさせていただく機会をいただきました。企画の杉本先生,貴重な機会をいただき,ありがとうございました。
私は杉本さんがずっと論じておられる「生活習慣病」という名称の問題とそこから派生するスティグマの問題を臨床心理学の観点からお話させていただきました。おりしも世の中は,「糖尿病」から「ダイアベティス」へ名称変更をしようと取り組んでいる最中でしたので,スティグマの解消がそれで本当に達成するのかについて意見を述べました。
講演前に杉本さんは「スティグマの本質は『誤った自己責任論』にある」と記事を出していました。私はそれについて考えたかったのです。発表スライドでご紹介したように,いくつか簡単な調査を実施してみたり,病気の原因帰属とスティグマの関係についての論文を見ていくと,おそらく杉本さんの仮説は正しいだろうということがわかりました。
多くの人は生活習慣を糖尿病の主たる原因であると認識しているし,2型糖尿病の人の多くは「生活習慣=行動が(糖尿病の)原因である」と当たり前に考えていて,2型糖尿病の人は自己非難の傾向が1型糖尿病の人に比べて強い。一方,2型糖尿病の人は「遺伝が(糖尿病の)原因である」ときちんと考えられているほど,自己非難が弱まります。自己非難は,セルフ・スティグマです。「自分の生活習慣が悪かったから糖尿病になったんだ」という考えは間違っていませんが,それだけでは正確性に欠けます。糖尿病は多因子疾患で,複数の遺伝素因と環境要因・行動傾向が絡み合って発症するはずです。そこを正確に認識することが,無意味な自己批判を減らす一助になります。
杉本さんが述べる,スティグマを助長するのは「誤った自己責任論」であるという仮説はおそらく正しい。では,この社会は何をどう修正していくべきか。変更すべきは,名称か,誤った責任論か。それについてのディスカッションはとても有意義でした。
「糖尿病」という名称が否定的な感情を生み,スティグマを発生させている部分はあるでしょうが,それを「ダイアベティス」に変更しただけでは,真のスティグマ解消には不十分でしょう。疾患の原因が(病気の発症にとって)好ましくない行動習慣に一元的に帰属される限り,本質的なスティグマの解消は達成されません。スティグマに養分を与えているのは,おそらく,普段の中で何気なく行っている行動の責任を個人に押し付けすぎる現代の思想です。その思想が自己決定・自己責任の名の下に,患者たちを苦しめています。我々はまず,ここに気づかなければならない。ディスカッションを通して,そう強く思いました。
本当に必要なのは,「極端な自己責任論からの解放」ではないでしょうか。個人に自己非難させすぎる「生活習慣病」という名称を堅持しながら,「ダイアベティス」の名称に変えるだけで自己非難のスティグマ問題を乗り越えていけるとは到底思えません。「極端な自己責任に原因帰属している傾向」を修正し,「誤った自己責任論」を放棄するために,病名変更と自己責任論からの解放は両輪で行われていく必要があるでしょう。
ちなみに,スティグマ解消のための名称変更は,「アドボカシー活動」という社会的弱者の権利擁護,弱者の代弁として行われています。しかし,20数年間,1型糖尿病患者として暮らしてきた私としては,このアドボカシー活動は始まった途端に加速し,「ダイアベティス」という名称が突然,豪雨のように降ってきたと感じました。
変更が悪いとは思いません。しかし,我々当事者の声を本当に聞いてくれているのだろうか?どこまで当事者の意思と希望が反映されているのだろうかと,不安と不満を感じます。「ダイアベティス」へと名称変更を進めていく人々に,取り残されているようにも感じます。
医療者に「患者」として気づかわれていても,「病いを生きる主役」すなわち「一人の人間(当事者)」としては尊重されていないように感じてしまいます。いささか失礼な物言いかもしれませんが,スティグマに関する洞察とアドボカシー活動における配慮が欠けているような気がします。
この名称変更の活動が,歴史の同じ轍を踏むことがないよう願っています。単に「自己責任の病いである糖尿病」から,「自己責任の病いであるダイアベティス」に変わるだけで終わりませんように。1型糖尿病と2型糖尿病の溝が埋まっていく施策になっていきますように。臨床心理学を学問する当事者としての願いを一層強めたシンポジウムでした。
当日、使用したスライドは以下のリンクからご確認ください。
https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:beca5f32-5b09-4f30-9e17-69645d237abd
医療人類学の立場から 濱 雄亮さん
私が伝えたいこと
私の主張は、
①呼称案「ダイアベティス」はいろいろ無理がある
②「アドボカシー」という語も分かりづらい(そもそも誰向け? 患者/当事者? 医療従事者? 世間?)
③欧米流のマネをやめませんか
でもそれに代わる日本流(あるいは東アジア流?)とは何かはまだよく見えない(提示できずすみません)
というものです。
「ダイアベティス」をめぐる日本糖尿病協会の考えは、「呼称案・ダイアベティス」によって病態を正確に表すことができる・スティグマの回避に有効・国際共通語である、というものです。確かに一理あるのですが、違和感がぬぐえません。
①呼称の提案でスティグマ防げるのか(また、生活習慣病概念への反省・批判が乏しい)
②日常用語を「国際共通語」にそろえる必要はないのではないか
③そもそも国際的発音は、ダイアビーティーズではないか?
④なぜトップダウンかつ拙速・閉鎖性な手法で急ごうとするのか?
患者・家族・医療従事者が手を取り合って行った統合失調症の動きとまるで反対です。かつての、インスリン自己注射への健康保険適用を求める運動ともやはり異なります。今回の動きは患者から内発的に起こったものではありません(そもそも日糖協は、医師達によって作られたもの)。
そこには、いくつものギャップ・断絶があります。既存の病名変更運動との間に、先行研究・「病院の言葉を分かりやすく」プロジェクトとの間に、「国際共通語」を日常的に使っていない人々との間に…。
とはいえ、患者側にも問題はあります。1型患者の間でみられる2型患者を見下す意識や、協会運営を医師任せにしてしまう当事者意識の欠如などです。
じゃあどうしたらよいのでしょうか。呼称案「ダイアベティス」の迅速な採用は、やはり違和感があります。また、患者としては、自分の人生に大きな影響を与えたものの名前(愛着さえ少しある)をたかだか1年で変えてほしくありません。研究者としては、病名は病態を正確に表していなければいけないのか、正式名・呼称の比較研究によって検証していきたいです。その先に、日本流(あるいは東アジア流?)を探れればと思います(患者が先頭に立たないのでむしろ日本流あるいは東アジア流?とすると今回の動きを肯定することになる!?探究はつきません)。
当日、使用したスライドは以下のリンクからご確認ください。
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2型糖尿病当事者の立場から 梶原景昭さん
去る11月9日に2型糖尿病の患者として参加・発表の機会を戴き有難うございました。以下その折りの発言にいくつか付け加えて申し述べさせて戴きます。とくに当日のテーマについて調査・研究を行ってきた者ではないため、感想・印象めいたものとなります。不徹底、限界についてお許し下さい。
シンポジウムでも申しましたが、今回のテ−マは重要かつ深刻なものであるという認識は私自身もっております。ただし、直接スティグマや差別を体験したという強い自覚はありません。でも自分では知らないうちに、そのように周囲から評価されたり、認知されたりしているかもしれません。
私を担当される医師、その病院の医療環境ともに配慮の行き届いた対応をして下さり、その点、恵まれております。他の病院や医師がそうでないと批判するわけではありませんが、患者対応にはさまざまな違いも見受けられます。私の場合、糖尿病に加え、がん、高血圧症のいわゆる「生活習慣病」が認められ、さらに緑内障、歯周病など「生活習慣」「加齢」に付き物のような疾患もあります。
お蔭さまで注意が分散し、糖尿病への想念が軽減されているのかもしれません。さらに70歳を過ぎて、退職してから7年余が経った今では現役時とは社会との接触も低下し、おそらく感覚も鈍って、このような認識の状況にあるのかもしれません。
糖尿病は診断されてすでに15年以上経っていますが、70歳を過ぎて医療のお世話になることが増えました。特定の病気に対する「世間」の観方にも大いに関心がありますが、いちばん感じるのは、「病者」「患者」というカテゴリーやレッテルの強さです。待ち時間、検査の手順の悪さ、説明不足、低水準の食事、障害物がハミ出して歩きにくい廊下など、病者はままざまな「受忍」(「受苦」)を要求されるようです。個々の医療従事者、病院に対する異和や意見がないわけではありませんが、もっとも異和感をもつのは上述した「不具合」を放置するかのような「システム」や「既成観念・言説」の存在です。
今回のシンポジウムのテーマと問題は、医療現場での対面的相互関係、「世間」のコモンセンス的理解(誤解)、社会における優勢なナラティヴ(社会的動向を左右するような言説)、医療をめぐるポリティクスや政策など多面的かつ複合的な様相を呈しています。人員不足や労働強化、管理運営上の問題が、個々具体的な現場や当該の人びとにシワ寄せをもたらし、そこでの「対立」やフリクションに回収されないように、と一介の「患者」は気になっています。
こうした難解な問題に解決策を提示することは、いうまでもなく私の手には余ります。そこで、すでに既知で常識的ではありますが、問題解決の(私にとっての)一歩となれば、という提案らしきものを以下述べます。
1.幅ひろい教育・啓蒙(教育、啓蒙という言い方に抵抗はありますが、とりあえず)
シンポジウムで杉本医師が述べられたスティグマ化を回避する用語や対応法(A1cが「悪化」ではなく「上昇」のような、説明の具体なやり方など)医療者側からの視点やモデルの押しつけにならない対応法や考え方が重要であるとの指摘を生かし、当たりまえの方法とするためには、さまざまな機会での「教育」「啓蒙」が必要です。
医師、看護師、栄養師、検査技師、病院職員などに対する「教育」の機会をどう創り出すか。多忙な勤務体制、時間や費用の制約のなかで、どう実現できるでしょうか。現場の当事者の努力のみに期待したり、押しつけたりせずに・・・です。医学や看護学などの医学教育課程のなかに上述したような問題意識や知見を涵養する科目やカリキュラムをさらに整備し、展開することが求められます。医学部・看護学部、病院、関係省庁・政府議会、医師会などでこうした活動を広範に行うことが必要と考えます(気楽に言っていますが、誰がイニシアティブをとるのか、仕事が忙しいのに今さら何を追加でやらされるのか・・・気が遠くなるようです)。
しかしシンポジウムに参加された方々は心理学、社会学、人類学の専門家であり大学で教育研究を行っておられ、また病院チャプレンを経験された宗教家、会議を主催された医師と、実際に教育・啓蒙に携わっておられます。医療の世界の全体ではないにしろ、こうした実践は力強い動向といえます。さらに医療従事者のみならず、「患者」の側にも「教育」ないし「参加・参与」も必要で、視聴覚媒体も用いた糖尿病講座を治療の一環としてよいと思います。さまざまな医療機関でこうした試みはすでに始っているでしょうが、もう少し本格的なものを期待します。病人も多忙なので、本格的な実施には相当の熱意や工夫がいるでしょう。
2.多様性の確保
医学教育に狭義の医学にとどまらぬ諸分野・諸学の協同が必要なように、医療をめぐる人材にもさらに多様な人びとが加わるようになることは、すでに趨勢といえます。しかし新型コロナ・ウイルス対策の委員会や審議会の構成をみても、そこに社会、情報、対外関係などの識者は殆んど見かけませんでした。問題の対応・解決に十分な視野、認識の拡がりがあったとは思えません。
病院でのボランティアによる援助・補助活動もさらに充実すべきでしょう。いわゆる医療従事者に加えて、ボランティアによる案内、相談、介助などの活動(それがマルチ・リンガルであればなお良いが)にはそれ自体の有用性があるでしょうし、病院を極端な閉鎖空間にしないためにも役立つでしょう。
3.「生活習慣病」という括り方
「生活習慣病」とする名称、そうした観方、さらにそれが「自己責任」と短絡されると、あまり歓迎したくない「大きな物語」や「シナリオ」の存在を想像してしまいます。疾病を個々人の生活習慣の結果と断じ、「自己責任」を問う「言説」は、脅迫的、排撃的なもので、貧窮者、異邦人、障がい者などの存在を抹殺しようとする政治権力関係の言説に他なりません。
生真面目に心配し過ぎて、いきなり「責任」の哲学的探求を始めたり、ジョン・ロウルズが気になったりしますが、まず深呼吸して立ち止まった方がよいでしょう。
1996年頃から「生活習慣病」の呼称が提唱され、1997年に医療保険制度が改正された背景のひとつ(あるいは主たる理由)は医療費の増大にいかに歯止めをかけるかにありました。さらにその背景には、「小さな政府」「民営化」「自己責任」「規制緩和」を旨とする「新・自由主義」的社会言説、政策的提案があったとみてよいでしょう。公的な保険制度を弱者救済の度が強すぎるとして料率を改定し、自立自助の機運を高めるなどということが社会のなかで優勢となりました。
過去、これに似かよった事態に19世紀イギリスでの「救貧法論争」、20世紀後半の「サッチャリズム」を想い起こすことができます。貧民に対する救済が、貧困者の自立心や生活習慣の規律をゆがめ、さらなる貧困を生み出すので公的救済を再整備するか否かという論が前者です。福祉「依存」により国富が減少し、労働者の賃金を低下させるという主張があり、貧窮者を収容した施設では、救済を受けていない労働者より低い生活水準の対遇とした(劣等原則)。『社会思想史事典』にこのように述べられているなかで注目すべきは、「公的扶助における劣等処遇の原則とスティグマ(恥辱)の刻印」であり、経済的自立ができないのは個人のせいだということであります。
またサッチャリズムについて、1980年代の彼女の「社会実験」は、「労働者階級のコミュニティ、産業、価値感、組識に対する攻撃的態度」を特徴とし、「望ましい富を生み出すのは富裕層の頂点にいる人々だった。残りは落伍者で、どうでもいいと考えていたと、オーウェン・ジョーンズはが述べています(『チャヴ 弱者を敵視する社会』2017、海と月社)。
政策的言説(そして社会のなかで結構受け入れられてしまう)としての「生活習慣病」や「自己責任」の喧伝は、異邦人、病者、障がい者、貧者、その他の社会的弱者を社会の「ふつう」の成員ではないとして社会の外へ追い出し、スティグマを負わせて人びとを周縁化する傾向を強めます。このような用語は「官製」であり、殆んど無批判に、かつ自動的にマス・メディアが取り上げ、社会に流通してしまいます。
TVでニュースを見ていて(私はTV開局以来のTVっ子ですが)、「『心肺停止』で被害者が病院に『搬送』され、死亡が確認された」という報道が当たり前に受けとられているのはここ数年のことでしょう。ここには救急専門家や警察・消防の定義や官製言語が、われわれの日常言語の世界を規定してしまう趨勢が明らかです。まずこうした事態として、「生活習慣病」を捉え直すことが必要で、そのあとで市民の「責任」? として、自身の生活や「健康」にどのように留意してゆくのか、ゆっくり考えれば良いのではないでしょうか。
疫学的理解や研究はきわめて重要と思いますが、先に述べた文脈での「生活習程病」という言い方には、さらにいくつかの懸念があります。
「自己責任」には後ろめたい気持ちや覚えがある気もしますが、環境汚染、気候変動、多量の化学合成物の添加や使用を考えると(そのような社会的変化を棚上げして)、簡単に「生活習慣」に災因を帰することの粗雑さに驚きます。また「生活習慣病」という「安易」な括り方は徹底した糖尿病研究を阻害するのではないでしょうか。あの新型コロナ事態のとき、なぜPCR検査を徹底しないのか(できないのか)、緊急事態ではあったものの、なぜわが国ではその研究論文が少ないのかが気になりましたが、医療をめぐる過度の「政治化」「言説化」は医療そのものに「陳腐化」を招くのでは?と心配してしまいます。
患者=素人の妄言にご清聴ありがとうございました。
第3部総合討論
1時間、非常に学びの多い、深い議論を交わすことができました。
以下に、総合討論の様子を文字起こししたテキストデータを示しますので、ぜひご一読下さい。
第3部:総合討論(60分)14:00〜15:00 司会:杉本正毅、鈴木智之
① 第1部の発表についての総合討論
パネリスト:倉田 誠、大柴譲治、東海林 渉、濱 雄亮、梶原景昭
杉本 ここから総合討論に入りますので、司会を法政大学の鈴木先生にバトンタッチをします。皆さん、よろしくお願いします。
鈴木 皆さんこんにちは、鈴木智之です。3年前からこのシンポジウムに参加させていただいておりまして、大した貢献はしていないのですけれども、皆さんのお話を伺って、最後に全体討論の司会役です。まず、第1部の倉田 誠さんと大柴譲治さんのお話を中心に議論をしていきたいと思います。
1部、2部通して私は非常に刺激と触発を受けておりまして、生活習慣病という言葉をどうするか、あるいは糖尿病という病名をどうするとかという目前の言葉の問題がきっかけではあるんですけれども、それを巡ってお話いただいたときに、非常に深く奥行きのあるお話を伺ったと思いました。そもそも我々が病気というものについて、ある原因をこういうふうに設定して考えてしまうのはどうしてなんだろうとか、あるいは苦しむ人に寄り添うとはどういうことだろうかといった原理的なところに降り立ったところで、私達の会が掲げている問題が捉え返されて、問い返されたというふうに思っております。そういう意味で、問題の奥行きや広がりみたいなものを再確認する機会になったと思います。
まずは倉田さんと大柴さんに全体の討論について、他の方の発言も聞かれた上でどのような感想を持たれたのか。お互いに質問やコメントがあれば伺いたいと思います。
倉田 僕は一番手だったので、他の方たちがどういう話をされるのか、およそ見当のつかない状況でお話したので、やや抽象的な話になってしまったんですけれど、後半の当事者である先生方の話を聞くと、見ているところがすごく似ていましたし、こんなに具体的に話せるんだと感じました。やはり最後に「自己責任」という物語がどうして出てくるのかについては、単なるその社会配分だけの問題ではなく、それに沿ったテクノロジーがどんどん発達しているし、一番引っかかっているのは、何か自己決定と自己責任はすごく親和性が高くて、何か患者の主体性みたいなことを押せば押すほど自己責任の話も盛り上がるような部分があり、実はそこがすごく気になってます。後半の議論を聞いていて私の中で引っかかったのは、間違った自己責任論や、極端な自己責任論はよくないという話が出てきました。それであれば正しい自己責任論とか、マイルドな自己責任論というものはあるのか。自己責任は、そういう捉え方をすることでこの問題がよくなるのかなというのが、自分に対する問いかけとしても出ました。濱さんは医療現場における「エホバの証人」の話をされましたが、医療現場の責任のあり方はすごく変わってきていて、特にその80年代後半ぐらいからインフォームドコンセントが出てきました。医師が事前に文書で説明してインフォームドコンセントを取り、そこで文書化されたものは、その人の意思であるという話になってきたんですね。それは同じように意思決定ができて、意思というものは書面で残せるんだということになりました。そうすると、今度は認知症の方も意思がないと言われていたものが、事前に意思決定してもらいましょうとか、意思決定できなかったらキーパーソンがその人の意思を推し量った意思などがあります。どんどんその流れで進んでいく一方で、意思で決定されたことというのはその人が決めたことなんだから、その人らしさであり尊重すべきであり、責任もあるよねという議論にもなりかねなくて、その辺の絡みを解きほぐしていかないといけないのではないか。私達は自己決定をすることによって、主体的になり自由になったところもあります。家や地域の縛りというものからかなり楽になって、いろんなことができるようになったと考えられているんですけれども、裏を返すと今回の自己責任論の問題に非常に繋がっているところがあります。私達はこれに向き合わなきゃいけないなという気がしました。以上が私の感想です。
鈴木 非常に大きな問いが投げかけられていますが、これについては後で濱さんや東海林さんにも答えていただこうと思います。では大柴さん、同じように感想をお話いただけますか。
大柴 ありがとうございます。私達がいろんなことが起こったときに原因と結果、因果関係の中で言葉を捉えていこうとする傾向はすごく強いんだろうと思いますね。でも、何か起こったときにそれをどういうふうに受け止めて、これから未来をどういうふうに形成していくかという現実と目的、そこからどういうふうにするかという因果応報だけではなくて、もうひとつの捉え方もあるのではないかと皆さんのお話を聞きながら感じました。
そして自己決定論というとき、私達人間はいろんな面があって、言葉化するとしてもそうじゃないアンビバレントな思いとか、あるいはいろんなことがある中でひとつの言葉を選ぶことがあり、本当にその言葉が全体を表してるかどうかというような人間観のようなもの、自分自身を見つめたときにもいろんな側面がある中で言葉として出てきたものが、その人の全体を捉えているかどうかという課題もあるのかなと思います。そういう意味では、自己責任論、自己決定論というのは、どこまで信頼できるのかなという根源的な問いかけになってしまうのではないかと感じました。
鈴木 私もお話を伺っていて、例えばアドボカシーという言葉を語源まで遡ってみれば、「呼ばれて傍らに立つこと」なんですね。しかし、昨今のアドボカシーみたいな言葉の使われ方の表層性みたいなものがやっぱりあると思うんですね。何か正しい方向に修正すれば、それが業績になるみたいな雰囲気の中でこの言葉が使われてしまってるんですけれど、本来は全くそういう話じゃなくてですね、もっと医療とかケアの本質に関わることを指している言葉なのだと再認識しました。この会のコンテクストの中で問われているのだということが非常によくわかるお話でした。この点は、ぜひ他の方々も後でお話いただけるとありがたいです。今、投げかけられた自己責任はという問いは、自己決定というシステムと表裏一体のものではないかと思います。後半の登壇者の方々から、お考えを伺おうと思います。東海林渉さんからお願いできますか。
東海林 僕に抱えられるかわからない問いでもありますが、頭を動かしながら答えていきますが、何か「マイルドな自己責任」があるような気もするし…という感じですかね。というのは、自己責任と自己決定はすごく相性がいいと、僕も思うんですね。その人の主権をその人が自己決定していくとか、その人を尊重するって言ったときに決められない部分がたくさんになってくると、それは自己決定ではないし、そこを確保していくことはすごく大切なことであるとは思っています。ただ一方で、特に2型糖尿病の方で語られる「自己責任」は、病を持つ方に持たせすぎてるんじゃないかという感じを僕はずっと持っています。僕はお医者さんから呼ばれて患者さんと話すシーンがあるんですけれど、「今、糖尿病になってどんなお気持ちですか」と必ず聞くようにしているのですね。そうすると、「いやもう後悔ですね」という人がやっぱり多い。なんで後悔なんですかと聞くと「若い頃に結構暴飲暴食してたから」と返ってきたり、僕がそういった話を向けなくても「病院に来るまでの経緯を教えてください」と言うと、必ずどこかで「たくさん食べてしまった」とか「飲み会が多くて、あんまり自分の健康を考えていなかった」といった話が出てくるんですね。それを自己決定して自分がやった行為だから、自分に責任があるっていう枠組みで語られるんです。話を聞いていくと、例えば夜中働かないといけない会社や、営業職ということで付き合いを断ることがすごく難しかったり、みんな同じように食べている/食べていたはずだという言葉が出てくるのです。環境と、自分が選択した行為との結びつきを、全く独立しているものとして考えられないのですよね。だから、自分が取った行動や振る舞いではあるけれど、あなたがそこの会社を選択して入った会社ではあるけれど、入った会社の環境や風土、雰囲気、誰と付き合ってたか、置かれた役職などいろんな要素が関係していたんですよね、という話をしても「やっぱり自己責任です」と、戻っていくんです。その引力の強さが、不気味なほど2型糖尿病の患者さんには強い。そういう印象を僕は持っているので、マイルドな自己責任がないとしても、それを2人の対話の中で作っていくような関係がすごく大事じゃないかなと思うんです。現象としてマイルドな自己責任が無いとしても、「そういう可能性もあるよね」ということを物語としてその人が受け取ってくださるように、医療者と患者という二者関係の中でも――ミニマムな社会と言えます――そういったことが語られることがすごく大事な気がしています。それが、二者関係を取り巻く病院の風土としてあれば、もう少し受け入れやすくなり、その病院の立地している地域の中で受け入れやすくなり、日本社会全体がそういった会話を作っていくことができれば、もう少し2型糖尿病患者さんの「自分の責任なんです」という負い目や自己非難を和らげていくことができるんじゃないかなと思いました。
鈴木 今、東海林さんが仰有ったことは、そもそも生活習慣とは何かを問い直すことに繋がる感じがしますね。では濱さん、お願いします。
濱 東海林さんの話を聞きながら考えていたんですが、いい自己責任、マイルドな自己責任はあるのか、どっちかといえば自己決定の方でしょうかね。元々の出自は、悪い医者に人体実験されないようにというような緊急避難的なところから出てきたものなのに、いつの間にか常態化する、前提にされてしまっていることが問題なのかなと思います。あと、自己概念の狭さもありそうです。たぶん欧米由来の自己概念だと思うんですけれど、例えば高齢者が家族のことを慮って狭義の「その人の本意」と違う選択をする、たとえば「延命はしないでほしい」というようなことがあります。「あなたの意思はそうではないですよね」と外から迫るのはちょっと違うんじゃないか。自己の範囲とは、もっとその人の皮膚の内側に限定されないようなものなんじゃないか。そういった広さみたいなものを受け入れられる自己論が出せるといいなと思います。それは、曖昧さやずれ、齟齬を受け入れる能力が社会全体で低下してる部分に起因していないだろうかと思いました。ただ、アドボカシーをどうしていくかという実務的な問いから抽象的な方にいきすぎましたが、以上です。
鈴木 梶原さんはいかがでしょうか。
梶原 先ほど倉田さんがおっしゃった自己責任と自己決定に非常に親和性があるのではないかというお話では、やはり一種の近代の病といえそうですね。これだけ個人とか自己というものを突き詰めてしまえば、ある種の逆転現象を生ずるのではないでしょうか。自己承認というものにこだわりすぎれば、それだけ苦悩が増すこともあるような気がします。ですから、自己責任の中の「責任」という言葉も古い方に引きずられて、共同体とか人との繋がりの方に、あるいは他者に対して責任を感じていたのが、急に自分に責任を感じ始めて自己責任ということを強調しすぎる、それを作り出してしまったという問題点が極めて大きいのではないかと思います。もうひとつ、先ほどお話の中に出てきた「文書化された意思」は、非常にちょっとねじ曲がった例ですが、ある種の専門分野のリアリティとかファクトというものを構築するためには文書は有力な方法であり媒体だと思うんですが、最近のメディアで気になるのは、「容疑者が間違いないと言っている」という言い方をNHKなんかで必ずするんですね。被疑者が間違いないなんていうのは、100人のうち1人いるか2人いるかで、あれは嘲笑(?)用語じゃないかと。つまり、ある現実をその分野で構成するために使う独特の用語があって、その中で我々は完璧に踊らされてるというか踊ってしまって、自分も専門家崩れのような形でそれを使ってしまうということをさんざん繰り返してるんじゃないかと。雑駁な例えですけれども、寿司屋に行ってアガリなんて素人は言っちゃいけないわけです。お茶くださいっていうと、寿司屋の親父さんが女将さんに「おい、こっちのカウンターに上がりいっちょ!」っていうものですよね。言葉の使い分けがあったのが、一緒くたになってしまっている。それと同じことが行政などある種の「パワー(権力)の言葉」を我々がすぐ使ってしまい、それで一体化するということにも繋がってるんではないかと思います。それと無関係ではないと思うのが、そういう場合の一つのあり方として仲介者的な認識は極めて重要だというのが、大柴さんのおっしゃったもっと広く考えていくということもそうだと思いますし、倉田さんがある種の仲介者などによって異文化を内面化する、あるいは自己を客観するという言い方をなさったんだと思うんですが、何か仲介者というものが、どっちつかずという意味ではなくて、改めて重要かなということを思いました。
チャットからの質問・感想① メディアの役割についてどのように考えられているでしょうか。新聞や雑誌などマスメディアによる糖尿病を運動や食事で治すといった記事や広告、健康系ウェブメディアで増える糖尿病と何か生活習慣などの因果関係や治療法、女性向けメディアの子育てや家事、家族を糖尿病にしないためにといっといった影響は少なからずあると思います。私はフリーライターとして小さな言葉遣いから気をつけるようにしていますが、メディアがどのような努力や工夫をすると良いというような考えは各立場からございますでしょうか。チャットからの質問・感想① メディアの役割についてどのように考えられているでしょうか。新聞や雑誌などマスメディアによる糖尿病を運動や食事で治すといった記事や広告、健康系ウェブメディアで増える糖尿病と何か生活習慣などの因果関係や治療法、女性向けメディアの子育てや家事、家族を糖尿病にしないためにといっといった影響は少なからずあると思います。私はフリーライターとして小さな言葉遣いから気をつけるようにしていますが、メディアがどのような努力や工夫をすると良いというような考えは各立場からございますでしょうか。
倉田 僕は糖尿病とメディアについてはそんなには調べたことがないのですが、認知症に関して60年代頃からの雑誌記事を追ったことがあります。やはりメディアの影響はすごく大きくて、CT検査が増え始めた70年代頃に入ってくると大衆雑誌では脳がスカスカになった画像を見せて、それまで痴呆老人の話だったのかだんだん脳のイメージみたいなものになってきて、そうすると今度はもう少し時代が下ってくると脳に効くトレーニングみたいなものが出てきて、焦点の位置が変わっていくのにメディアは非常に大きな役割を果たしてるなと考えました。最近、介護保険以降では高齢者が脳トレーニングをするのではなく、認知症になる前から予防するものがあるみたいなことがどんどんメディアに出てきて、糖質の摂り方をこうしましょうとか伝えてくる。これによって相当病気のイメージとかその原因の絞り込み方というのは変わってくるし、やはり大衆への影響は重要な、まさにイメージ作りの中核にあるようなものがこれまでのマスメディアでつくられてきたと思います。今だとソーシャルメディアではまた少し違ってくるのかな、など思いながらウォッチしています。
鈴木 倉田さんに振ったのは、最近、認知症が生活習慣病になっていくという流れの中で、一方でデータ分析が進み、他方で財源問題が進んでいく中で予防的にやれることは何でもやりましょうという空気になっている話だと思うんですよね。そんな時にメディアの中で取材された方々は何の悪意もなく「ご家族を糖尿病にしないために」ということを本当に思って書いてらっしゃるんだとは思うんですけれども、そういう言説はおそらく小さなことでもやれることはやる、努力しなきゃしなきゃいけませんよねというある種の規範性みたいなものを図らずも体現しているのではないかなと思ったりします。「予防のためにやることは何でもやりましょう」という空気感みたいなものを作る力は、すごく強くあると僕は思うことがあります。どう書くべきかという話ではないんですけれども、メディアの責任みたいなものはあるのかなっていう気がちょっとしました。
杉本 SNSのX(旧Twitter)は「コミュニティノート」(※)というファクトチェック機能が付きましたね。何か問題があるとチェックが入るようになってきたので、メディアも本当に何ていうか書きたい放題、特に健康に関しては非常にいろんな記事が踊ってるわけです。何かファクトチェックみたいな、メタ解析みたいな機能を持ってくださるような会社なり団体が出てきてくれて、客観的に分析して提示してくれると国民の混乱は少しは和らぐのになあなんて思うんですね。倉田先生からエスノグラフィのお話がありましたが、糖質制限が出現してずいぶん経ちますが、一時期はエスノグラフィをやる価値があるくらいの独特な世界をつくっていました。今でも糖質制限を定期的にプロモートするような雑誌が出ていて、すごいヒエラルキーみたいなものを特集する。完璧にやる人は尊敬され崇められるみたいな独特な世界がある。ですから、何かファクトチェック的なメディアが出てきてくれると嬉しいなというふうに思います。
(※)真偽不明のポストや明らかにデマと思われるポストに、協力者が解説や背景を後付けできる機能である。これによりXユーザーは、その情報が果たして真実かどうかを参考URL付きで確認することができる。
東海林 一生懸命考えてみたんですが、行き着いた先は患者が気をつけるべきだということに気づいてしまって、お答えになるかわかんないんですけど。お書きいただいていた「運動不足で糖尿病を治す」とか、「食事で治す」とか、いやめっちゃ魅力的だなって患者的には思ってしまいます。たぶん近所で売っていたら、一旦は見るだろうなと思いながらコメントを読んでいました。なぜそれを手に取りたくなるのかを考えると、自己コントロールというか自己制御ができるんだというパラダイム、そういう認識の枠組みにおそらく普段から染まっているからこそ、その情報を受け取りやすいんだろうなと素直に思います。それは当たり前だと思うんですけど、ただ、そこに込められているメタ・メッセージがコンテンツよりも大事じゃないかと思います。例えば、運動不足の解消で糖尿病が良くなるとか、食事で治るとかいうメッセージは、何をメタ・メッセージとして伝えてるかといえば「糖尿病は自分の行動を変えることで改善させることができる」ということ。その逆転したメッセージとして、「よくならないのは、あなたのその食事や運動が理想的ではないからだ」っていうメタ・メッセージも同時に伝えていると思うんですね。僕たちはいろんな情報に触れる中でおそらくそれを受け取り、自分の中でそれを因果関係として結び付けているんだろうと思います。もし、何かメディアとして大事な役割を考えるとすれば、そういった情報のカウンターパートとなるのも大事ではないでしょうか。「どれだけやっても良くなりませんでした日記」とか「でも誰か褒めてください日記」とか、それに対してお医者さんが「いやよくあるよね、そういうの」とか返してくれる日記や文通とか、そういうちょっとクスッと笑えるけど、でもリアリティを伝えているみたいなものがメディアの中でも理想論じゃない形で受け取れるようになると、患者としては楽だろうなと思いました。この自己コントロール可能パラダイムに凝り固まってるので、そこから抜け出すには他者との交流や他の人の意見を受け取らないと、枠組みから抜け出せないと個人的には思います。何かそういう情報がメディアで語られたり、病院でお医者さんと「こんな情報があったんですけど、先生どうですか」と聞いて、「それね、どう思うの?」というトークを3分ぐらいして、お医者さんに「それは話半分に聞いておいたら?」と言われたら「そうかな」と思えてきたりするなというようなことを思いました。
杉本 先ほどの自己責任や自己決定にちょっと戻って、糖尿病治療の歴史をお話ししますと、自己決定というものは1990年代ぐらいから出てきて、それまでは医師の指示にどれだけを従えるかというような、コンプライアンス100%の医療が続いていました。医者の指示通りにインスリンの単位をうつ、カロリーを守るといった指示です。カロリー中心の医療の時には、もうまさに言われた通りにどれだけやるのか、良くならないのは言われた通りやらないからだという時代が続いていました。90年代からカーボカウントがアメリカで普及し始めました。これは、食後の血糖値は炭水化物で決まるので、食事中の炭水化物(カーボ)量を計算し、その数値に合わせた量のインスリンを打つという考え方です。ここで初めて自己責任、エンパワーメントという流れになりました。エンパワーメントの本も出版され、その中には患者と医者、看護師のやり取りのストーリーが綴られています。自分で考えてインスリンを打つという「自己決定」という行為が素晴らしいのでそれを尊重しようという運動が生まれて、セルフコントロールという言葉がとても希望に満ちたものとして登場したのです。おそらく、その頃にインフォームドコンセントのような概念も出てきたと思います。ところが、患者さんは医師の説明を聞いて、ただサインをするだけというのが実体で、これではダメなのではないかとなり、現在はシェアードディシジョンメイキング(SDM)の時代になりました。より高度な患者と医師の同意が必要だという時代に入ってきたわけです。自己責任と自己決定の引っ張り合いというのは、本当に新しい段階に入ったんだなというように思っています。それで、マイルドな自己責任論と先ほど東海林さんがおっしゃったんですけど、僕自身は患者さんには逆説的なこと、例えば太ってる人が来たら、「肥満と摂取カロリーは関係ないからね。だから過去の食事が悪かったからなんて絶対考えちゃ駄目ですよ」とか、あるいは「生活習慣病っていう言葉は非常に誤解を招いてるけども、生活習慣が悪いからなったわけじゃないですからね」「あなたの過去の生活を否定しては絶対駄目ですよ」みたいな話から入っていきます。まぁそれで元気になってくれる人も多いし、でも中にはそうでない人もいる訳ですが・・・。先程のマイルドな自己責任というのは、生活習慣というものをその人の生き方、物語として捉えて、あなたはあなたらしい物語を生きればいいんですよ。その中で治療との折り合いをつけていきましょうよ。あなたらしい生き方に合わせて、いくらでも治療をアジャストすることはできますから・・・というような関係を作っていく。自分は自分らしい生き方ができればいいんだというような関係を共有するのがマイルドな自己責任ではないか。2人で築いていく関係ではないかと思いました。
チャットからの質問・感想② 訪問看護師です。人生の目的が病気にならないことではないので、自分の人生を主体的に生きる中で、病に行ってしまうのは仕方ないのかなと考えました。病になったとしても付き合いながら、自分の人生を過ごせると良いなと思います。その中で自己責任論は考えさせられる言葉でした。
チャットからの質問・感想③ 糖尿病専門医師です。東海林さんのお話を聞きながら、自分の不完全さを寛容に受け入れることの大切さを患者さんに伝える重要性を感じました。それには他の人との対話を顧みると自分に気づく物語の力に共感します。
鈴木 おそらく東海林さんが言った「自己制御できるという思い込みでガチガチになってる」という話の対極にある何かをそれぞれに考えられているのかなと思います。「病気になるのはしかたがない」というのが、自己制御論の対極にある発想ですよね。しゃあないというところから歩いていく。どこに責任があると言って責めるようなコミュニケーションではないところで、あなたがあなたの人生どう生きるのかという話になったときに、たぶん杉本さんがおっしゃる「物語」がすごく力を持つんだろうなと思ったりもしますね。そういうことを考えさせられるコメントをいただきました。
東海林 今、鈴木さんがおっしゃった「病気になるのはしかたない」とか「しゃあない」っていうのと、その直前で考えていたことがちょっとだけ繋がりました。倉田さんが先ほどおっしゃっていた「自己決定と自己責任の相性はいいんじゃないか」ということを僕あの回答で言ってたんですけど、なんかいいと思いますって言った後にすぐ撤回して申し訳ないんですけれど、半分いいと思うけれど半分よくないかなと思い始めてきました。というのは、たとえば今、僕は仕事をするためにけっこう夜更かしするんですね。もしこれがあと5年後に不眠症になるきっかけになるとしたら、僕は今、自己決定しているだろうかと思ったら、別に決定はしてないなと。自分が今やっている行動に、未来のその時点から遡って責任を持つことができるのだろうかとちょっと思い始めてきまして。だから、「あなた2型糖尿病ですよ」と言われたときに、過去の行動を思い出していろんな可能性を考えて、それこそお医者さんががんの患者さんに「手術にしますか、抗がん剤にしますか、それとも放射線治療にしますか」と選択を決定させるようなチョイスは、僕らは特にしているわけじゃないんじゃないかと思うんですよね。何となく自己決定と自己責任を考えると、なんというか相性がいいように見えるんだけど、遡って考えると別に自己決定はしていないのに責任を持たねばならない状況は、来るんじゃないかなと思います。そこがおそらく鈴木さんがおっしゃってくださった「病気になるのは仕方ないね、しゃあないね」というのと相性がいい気がしてきました。たぶん責任を取れるのは今からこの先、そういう状況になったことがわかった時点で、この今ある状況の責任を2人(患者と医師)でどうやって取っていこうかっていう方のスタートだと思うんですよね。よく意思決定支援とか言いますけれど、哲学者の國分功一郎さんが著書『中動態の世界 意志と責任の考古学』を解説しているWebだったと思うのですが、「欲望形成支援」と言い直した方がいいんじゃないかと。意思を決定するというよりは、その人がなりたいようにとか、なりたいと思っているものをつくっていく作業が今、理想とされている意思決定支援なんじゃないかという話をされていました。そういった会話は、おそらくこれから自己責任を取っていくにあたって、医療者や同じ病気の人たちと話し合う中で患者さんそれぞれが自分の人生を描き、どう生きるかを改めて選んでいくときに必要な関わり方なのではないかというのも少し思いました。いろんなところを結びつけて散らかっちゃって申し訳ないんですが、やっぱり会話と物語は大事だという感想です。
鈴木 いろんな論点が含まれていると思うんですけど、そもそも責任という言葉自体が原因帰属のレベルで「こうなったらお前のせいだ」という意味で責任というのと、「あなたはあなたの生を引き受けて生きなきゃいけないんですよね」という意味での責任は、全然フェーズが違っていて、東海林さんがおっしゃるのは「今のあなたがこれから生きていく上での責任をシェアしていきましょう」という話として、ご自身の役割を置いてらっしゃるのかなと。それがさっき言った二者関係の中で周りがつくっていける何かということなんじゃないかなというふうに思いました。
鈴木 後半の登壇者の方で、他の方に質問してみたいとか、話を聞いてこう思いましたみたいなことがあれば、伺おうかなと思うんですが、いかがでしょうか?
濱 さっき、最初にチャットで質問してくださった坂元さんのご質問についてちょっと考えていました。広告やいろんなメディアにおける表現って難しいなと思っていてですね。20年ちょっと前に、新聞に健康雑誌の広告がよく出ていました。『ゆほびか』『壮快』『いきいき』といったもので、毎月のように「玉ねぎで血糖値が下がった!」みたいな見出しが載るんです。中身を読んでいなくても、新聞を読んでるだけで「そういう効果があるんだ」と思わせる文字に人が接してしまうのはいいんだろうかと思って、それを何ヶ月か集めて、JARO(公益社団法人 日本広告審査機構)という機関に送ってみたんですね。しかし、「その程度だと規制できませんよ」みたいな話だったんです。じゃあ特定の言葉とか、安易に期待させるよう表現を使わないようにしましょうとどんどん制約をかければかけるほど良くなるんだろうかということも思いました。
濱 僕が勤めている短大は定員割れしているので、学生をたくさん集めたいので「就職率98%です」と言うわけです。これは本当の数字なんですけれども、広告する立場としては、あからさまに人を貶めるような表現とかでなければいいのではとか、やたら規制を増やせばいいというものではないという話になるんだろうかとか、ちょっといろいろ考えていました。何かお考えはありますかという坂元さんのご質問には、東海林さんがおっしゃっていたメタ・メッセージという言葉がけっこうピンときて、どういうメタ・メッセージを生んでしまうかということを書く側が一瞬でも考えるというような、あまり実務的ではないんですけれど、そういったところかなと思います。安易に規制を増やすのは違うのかなとか、ぐちゃぐちゃ考えてました。
鈴木 この会では、病気の名前や呼称などをいかに適切に変えていくかということを考えています。そもそも言葉を正しいものに変えていこうという発想自体が、もしかするとある種の危うさを含んでるところがあるのではないか。つまり正しい言葉を選ぼうとすればする程、無難な言葉、差し障りのない言葉を選ぶという話になっていくと思うのですね。日常用語という言葉を使うことだと思うんですけれど、それは専門家の用語ではなくて生活者が生活の中で使い回す言葉になっていくっていうことを踏まえた上で、その言葉は一体どういう意味を持って流通するんだろうかと考えなきゃいけないと思うんです。その上で、呼称の提案みたいなものも単に専門家として正しい知識を普及しましょうという態度は、直感的には裏切られることが多いのではないかと僕は思います。ダイアベティスという言葉が流通し始めたら、どういう語感で人々に使い回されるのだろうかということをやっぱり考えなきゃいけない。それがどう正しいのかだけではなくて、どんなふうに使われるのだろうかということも考える必要があるのかなと、お話を伺いながら考えていました。
杉本 東海林さんの紹介してくださった欲望形成支援という言葉は、非常にいいなと思いました。責任という言葉はなかなか重い言葉なので、欲望形成支援というようなものがもっと医療の現場で使われるようになることで変わってくるかなと思います。前回のシンポジウムで発表した文化人類学者の碇さんが論文の中で書いておられたのですが、自己責任、自己責任とすぐに言けれども、私達は基本的に社会的な要請に基づいて食べたり飲んだりしているわけで、いちいち食べたり飲んだりするために自己決定しているわけではないと。飲食の問題について自己責任という批判は当たらない、不当な誹りだと書いていらっしゃいました。自己責任というものをそういうふうに使ってほしくない。糖尿病学会で自己責任の使い方みたいなことももっと議論を重ねていったらいいのではないかと思います。答えはないのでしょうが、そういうことを議論できるような学会になっていってくれたらいいなと思いました。
鈴木 今のお話と繋げて、皆さんのお話を伺って私が考えたことを申し上げますと、言葉として問われていることは、実は生活習慣という言葉自体をもう一度根っこから考え直さなきゃいけないってことが提起されたんじゃないかなと思います。自己責任論との繋がりで言えば、生活習慣なんだからあなた変えられるでしょっていう前提があるわけです。生活習慣に起因するからあなたの責任なんだよという理屈になっているのですが、もとより生活習慣はそういうものではないということですよね。今の話もそうですよね。食べるという行為は生活習慣の大事な一部ですけれども、それは自己決定でされてるわけでも何でもなく、環境など複合的な要素の中で成立している営みとして、食というものがある。そこにまさに生活習慣っていうのが立ち上がっていくわけですけど、そんな簡単に自己制御できないところにあるという意味での自己だと思います。生活習慣だから変えられるよね、生活習慣変えないのはあなたが悪いよねというロジックに立っているときの、生活習慣なるものの理解の浅薄さが一貫して問われてきたのではないでしょうか。だから、生活習慣病を死語にするというときに、生活習慣に原因があるというわけじゃないですよという話をするだけではなく、そもそも生活習慣なるものの捉え方が、その言葉の中に含まれてる意味が非常に歪んでるし、薄っぺらいというのか、そういうことが今日は問われたと感じました。
杉本 文化人類学で言うハビトゥスという概念だろうと思います。もっと複合的なものであるということですよね。
倉田 ハビトゥスの研究などもその通りですね。ハビトゥスがその人らしさ、他人との違いをつくっていくと言われています。けれども、自分で作ったライフスタイルが自分らしさだというような意識がやっぱりどうしても残ってしまう。それが今回の自己決定と、それから自己責任を繋ぐ一つの橋なのかなという気がしました。先ほど東海林さんがおっしゃっていただいたことを僕もすごく考えさせられたんですけれど、後ろ向きに見るものと前向きに見るものは違うというのは本当にその通りですよね。何かこれからやっていくことに対しては意思決定かもしれないけれども、責任論って後ろ向きです。例えば、透析の中止のときに、意思決定をしたんだけど、後で振り返って「いや、こんなはずじゃなかった」と。でも、あなたが意思決定しましたよねっていうときの責任は、本当にそうなのかなと。そのときは前向きに、まさに意思決定をしたと思ったものを、意思決定の責任とされるのはどうなのかなとか、結構いろんなことを考えさせるテーマだなと思いました。後ろ向きと前向きの違い、どんな違いがあるのかというのは、いい視点だと思いました。
濱 責任は全部ないのがいいっていう話でもないし、どうかなと思っていたんですが。この2種類、医師から取り戻す責任はいいけれど、社会から押し付けられる責任はなんか嫌だなと。でも、それは勝手すぎるだろうって言われると、そうかもしれないんですけれども。
杉本 玉手慎太郎さんの著書『公衆衛生の倫理学——国家は健康にどこまで介入すべきか』の中で、自己責任を乗り越えるというチャプターがあって(第4章 健康をめぐる自己責任論の倫理?)、その中でこれからの医療行政が前向きの自己責任、後ろ向きの自己責任という表現が出てきます。うまく健康を管理することができなかった人たちにどういうふうに接するかについて、これからはそういう人たちの事情を理解して、エンパワーしていかなきゃいけない。後ろ向きの責任については問わない。そして、前向きの責任についてエンパワーしながら支援していくというような責任論を乗り越える概念のひとつとして、後ろ向きと前向きに分ける。そして、前向きの自己責任を応援していくというくだりがあったということを、一言お伝えしたいと思います。
鈴木 全体討論はこのぐらいまでということでよろしいでしょうか。簡単に答えの出ない大事な論点がいくつも浮上してきて、それぞれの現場で考えなければいけないことなのかなというふうに思いますし、この会としてもどうするのかがたくさん問われたと思います。どうもありがとうございました。
杉本 鈴木さんどうもありがとうございました。今日は皆様の活発な発言によって、非常に良い議論ができたのではないかと思います。自己決定と自己責任の関係についても改めて考えさせられましたし、アドボカシーという言葉の問題も考えられましたし、生活習慣というものの捉え方、そもそも悪い生活習慣/良い生活習慣ということ自体がどだいおかしなことなんですけれども、やはり私達が根底から考えていかなければならないことは、たくさんまだ残っていることがわかりました。そういう問題を議論できる場をつくって、底上げをしていけたらいいなというふうに思いました。そして濱さんも言っておられたように、やはり病名変更については急ぐ問題ではないと思うので、ぜひゆっくりと進めていただくように、そして糖尿病という病名に愛着を持っている人がたくさんいるんだということも伝えていけたらいいなと思いました。
今日はどうも朝から長い時間ありがとうございました。